この本は、皮肉的に著者たちが言うところによれば、毒婦たちが毒婦たちを語るという、鼎談本です。
数年前の木嶋佳苗による殺人事件と、1997年の東電OL殺人事件を中心に女が毒婦になるとはどういうことなのかが語られていきます。
正直な感想で言うと、俺はこの本に感じることがなかった。
いや、知的な刺激にはなるんですが、心に響くというか、自分の感情が揺さぶられることがなかった。
なぜって、俺もゲイとはいえ、しょせん男だから、でしょうかねぇ。
この本は、著者の一人北原さんが最初に「徹底的に女目線で語りたいんです。毒婦目線で」と宣言しているように、女目線で女を読み解いています。
男の作家や学者や識者が男目線でしか女を語れないなら、女性がそこに女目線をぶつけることは不可欠でしょう。
でも、女が女目線で女を語る時、多くの場合は男目線というものに批判的ではないですか?
一方男たちは、女目線というものに基本的に無感覚というか、眼中にない。
その二つは平行線で、それぞれに交わることがあまりない。
たまに女目線が、批判のために男目線に言及し、女目線に気づいた男目線が、無意義な非難を返すぐらいで。
ジェンダーというものが人間と人間の関係性だとすれば、男目線も女目線もある意味で真実であると同時に虚構であり、その目線が交わったところに事実が転がっているような気がするのですが、なかなかこの二つは交わらないんですね。
世間と断絶されたアマゾネスの世界で女が女を殺した事件じゃないんだから、女がいくら木嶋佳苗の境遇と感情、考えを推察し読み解いたとしても、それはことの一端に過ぎないのでは、と思ってしまうのです。
女は女をパーフェクトに読み解けるの?
そこに男がからんでいる以上、男の目線にも、女からは見えない真実が転がっている、ってことはない?
女が男を語る時、男自身には無自覚な男の本性が露呈するのと一緒で。
例えば、著者の北原さんと上野さんは、メディアが木嶋佳苗のことをブスだ、ブスなのに、ブスのくせにと騒ぐことに共感せず、「女は別に美貌でもてるわけじゃないってことは、誰もがすでに百も承知のことでしょうに」と冷めたコメントをくれるわけですが、やはりこの事件を知った多くの人の中に(少なくとも男性たちの中に)、ブス!という衝撃が走ったのは事実。
俺も、それがなかったら木嶋佳苗を記憶にとどめることもなかっただろうし。
あぁ、よくある婚約詐欺?って。
確かに女性がもてる要素は美貌だけではない。のでしょう。この辺り、ゲイの俺には肌感覚がないのですが。
でも、男たちが「男がブスに騙されるはずない」「ブスが毒婦であるはずない」と感じているのは事実です、どうせならそんな男目線についても語ってほしかったなぁと思うのです。
いや、わかっています。
この本のタイトルは「毒婦たち 東電OLと木嶋佳苗のあいだ」。
つまり、東電OLと木嶋佳苗という女たちが対象であって、東電OL、木嶋佳苗それぞれの事件が対象ではないんですよね。
男目線は男の書いた本で汲み取り、この本からは女目線を汲み取り、あとは自分で考えなさいよ、ということでしょうか。
男目線と女目線が出揃った今、この次には男性と女性交えての鼎談って本があれば、ぜひ読みたいんですけどねぇ。
本の内容にほとんど触れない感想でしたが、それほど俺の心にはあいにく響かなかったのです。。。
ゲイでありいわゆる「普通の男」「男らしい男」ではない俺も、男の目線というものを内面化しているんだなーということを再認識させてくれました。
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数年前の木嶋佳苗による殺人事件と、1997年の東電OL殺人事件を中心に女が毒婦になるとはどういうことなのかが語られていきます。
正直な感想で言うと、俺はこの本に感じることがなかった。
いや、知的な刺激にはなるんですが、心に響くというか、自分の感情が揺さぶられることがなかった。
なぜって、俺もゲイとはいえ、しょせん男だから、でしょうかねぇ。
この本は、著者の一人北原さんが最初に「徹底的に女目線で語りたいんです。毒婦目線で」と宣言しているように、女目線で女を読み解いています。
男の作家や学者や識者が男目線でしか女を語れないなら、女性がそこに女目線をぶつけることは不可欠でしょう。
でも、女が女目線で女を語る時、多くの場合は男目線というものに批判的ではないですか?
一方男たちは、女目線というものに基本的に無感覚というか、眼中にない。
その二つは平行線で、それぞれに交わることがあまりない。
たまに女目線が、批判のために男目線に言及し、女目線に気づいた男目線が、無意義な非難を返すぐらいで。
ジェンダーというものが人間と人間の関係性だとすれば、男目線も女目線もある意味で真実であると同時に虚構であり、その目線が交わったところに事実が転がっているような気がするのですが、なかなかこの二つは交わらないんですね。
世間と断絶されたアマゾネスの世界で女が女を殺した事件じゃないんだから、女がいくら木嶋佳苗の境遇と感情、考えを推察し読み解いたとしても、それはことの一端に過ぎないのでは、と思ってしまうのです。
女は女をパーフェクトに読み解けるの?
そこに男がからんでいる以上、男の目線にも、女からは見えない真実が転がっている、ってことはない?
女が男を語る時、男自身には無自覚な男の本性が露呈するのと一緒で。
例えば、著者の北原さんと上野さんは、メディアが木嶋佳苗のことをブスだ、ブスなのに、ブスのくせにと騒ぐことに共感せず、「女は別に美貌でもてるわけじゃないってことは、誰もがすでに百も承知のことでしょうに」と冷めたコメントをくれるわけですが、やはりこの事件を知った多くの人の中に(少なくとも男性たちの中に)、ブス!という衝撃が走ったのは事実。
俺も、それがなかったら木嶋佳苗を記憶にとどめることもなかっただろうし。
あぁ、よくある婚約詐欺?って。
確かに女性がもてる要素は美貌だけではない。のでしょう。この辺り、ゲイの俺には肌感覚がないのですが。
でも、男たちが「男がブスに騙されるはずない」「ブスが毒婦であるはずない」と感じているのは事実です、どうせならそんな男目線についても語ってほしかったなぁと思うのです。
いや、わかっています。
この本のタイトルは「毒婦たち 東電OLと木嶋佳苗のあいだ」。
つまり、東電OLと木嶋佳苗という女たちが対象であって、東電OL、木嶋佳苗それぞれの事件が対象ではないんですよね。
男目線は男の書いた本で汲み取り、この本からは女目線を汲み取り、あとは自分で考えなさいよ、ということでしょうか。
男目線と女目線が出揃った今、この次には男性と女性交えての鼎談って本があれば、ぜひ読みたいんですけどねぇ。
本の内容にほとんど触れない感想でしたが、それほど俺の心にはあいにく響かなかったのです。。。
ゲイでありいわゆる「普通の男」「男らしい男」ではない俺も、男の目線というものを内面化しているんだなーということを再認識させてくれました。
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俺がなぜこの本を読んだかは、メインのほうのブログを読んでくれた方は察しがつくでしょう。
俺自身、治験ボランティアの体験者だからです。
↓
治験ブログ
治験って、語弊を恐れずわかりやすく表現すると、新薬の人体実験です。
安全性には最大限配慮された人体実験です。
新開発された薬が市販される前に、厚労省の認可をうけるために人体に投与してデータを集める。
それが治験。
俺自身は、大学生時代とごく最近参加しています。
俺は数回、時間がある時に参加したことがあるにすぎませんが、この本の著者はタイトル通り、治験で食ってます。
アラサーですが仕事はせず、治験から得る協力費のみで生きています。
あ、治験は職業ではなくボランティアという理念(すなわち売血を禁じる理念)から、治験で支払われるお金は給与ではなく協力費だったり負担軽減費という名目になっています。
俺が先日参加した治験は、6泊7日で9万円でした。
ただ!
治験で生活するのって、俺は難しいと思います。
なぜかというと、治験は連続参加できないのです。
きちんとした医学データをとるためと参加者の負担軽減のため、参加は通常、3-4ヶ月の間をあけないと認められません。
一回の治験の協力費で数ヶ月食っていくって、よほど長期の治験以外は困難。
この著者の場合、俺が参加したような一般的な治験以外にも、ちょっと危ない裏治験まで駆使し、働かずに生きていけるだけの収入を得ているそうです。
それを何年も続けるって、、、ある意味すごい。
俺の感覚だと、労働するより大変な気がしますが。
ただ、この本の前半に描かれる「初めて治験に参加した時の入院話」は、非常にリアリティをもって読めました。
俺が実際に治験で体験したことと、ほとんど同じだったから。
あーあの風景を思い出す、という感じ。
本の最後、著者は一瞬、考えを改めそうになります。
自分より年上のプロ治験者(治験の協力費で生活してる人)が、40歳をすぎて治験になかなか参加できなくなる姿を見て、「治験で生活するのはやめて、働こう」と決心しハローワークに行くのです。
そして、清掃員としての仕事を手に入れる。
著者は、その時改めて治験について考え、「プロ治験なんて、仕事でもなんでもなく、自分勝手で情けない怠け者」と批判するのです。
はい、さいてー。
と、俺は感じましたね。
プロ治験が実際に肯定できる存在なのかは別にして、自分がプロ治験をしていた時は労働を否定していたくせに、自分が一歩外に出たら治験を否定しバカにする。
著者よ!結局、あなたは自分を肯定したいだけだろ!
とツッコミをいれずにはいられない。
と、思ったら、それは俺の的外れな義憤だったことがわかりました。
その直後、著者は言うのです。
うっそぴょーん。って。
結局著者はね、治験病院からの電話で誘惑に負け、治験への参加にOKし、今後もカラダがボロボロになるまでプロ治験を続けることを決意する、という結末。
あなた、本当にそれでいいの?人生、何の保障もないんだよ?
と思う一方、さっきの義憤が解消され、なんだかみょうな爽快感。
ずるいなーこの結末の持っていきかたは。
や、やられた、って感じの読後感です。
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治験ブログ
治験って、語弊を恐れずわかりやすく表現すると、新薬の人体実験です。
安全性には最大限配慮された人体実験です。
新開発された薬が市販される前に、厚労省の認可をうけるために人体に投与してデータを集める。
それが治験。
俺自身は、大学生時代とごく最近参加しています。
俺は数回、時間がある時に参加したことがあるにすぎませんが、この本の著者はタイトル通り、治験で食ってます。
アラサーですが仕事はせず、治験から得る協力費のみで生きています。
あ、治験は職業ではなくボランティアという理念(すなわち売血を禁じる理念)から、治験で支払われるお金は給与ではなく協力費だったり負担軽減費という名目になっています。
俺が先日参加した治験は、6泊7日で9万円でした。
ただ!
治験で生活するのって、俺は難しいと思います。
なぜかというと、治験は連続参加できないのです。
きちんとした医学データをとるためと参加者の負担軽減のため、参加は通常、3-4ヶ月の間をあけないと認められません。
一回の治験の協力費で数ヶ月食っていくって、よほど長期の治験以外は困難。
この著者の場合、俺が参加したような一般的な治験以外にも、ちょっと危ない裏治験まで駆使し、働かずに生きていけるだけの収入を得ているそうです。
それを何年も続けるって、、、ある意味すごい。
俺の感覚だと、労働するより大変な気がしますが。
ただ、この本の前半に描かれる「初めて治験に参加した時の入院話」は、非常にリアリティをもって読めました。
俺が実際に治験で体験したことと、ほとんど同じだったから。
あーあの風景を思い出す、という感じ。
本の最後、著者は一瞬、考えを改めそうになります。
自分より年上のプロ治験者(治験の協力費で生活してる人)が、40歳をすぎて治験になかなか参加できなくなる姿を見て、「治験で生活するのはやめて、働こう」と決心しハローワークに行くのです。
そして、清掃員としての仕事を手に入れる。
著者は、その時改めて治験について考え、「プロ治験なんて、仕事でもなんでもなく、自分勝手で情けない怠け者」と批判するのです。
はい、さいてー。
と、俺は感じましたね。
プロ治験が実際に肯定できる存在なのかは別にして、自分がプロ治験をしていた時は労働を否定していたくせに、自分が一歩外に出たら治験を否定しバカにする。
著者よ!結局、あなたは自分を肯定したいだけだろ!
とツッコミをいれずにはいられない。
と、思ったら、それは俺の的外れな義憤だったことがわかりました。
その直後、著者は言うのです。
うっそぴょーん。って。
結局著者はね、治験病院からの電話で誘惑に負け、治験への参加にOKし、今後もカラダがボロボロになるまでプロ治験を続けることを決意する、という結末。
あなた、本当にそれでいいの?人生、何の保障もないんだよ?
と思う一方、さっきの義憤が解消され、なんだかみょうな爽快感。
ずるいなーこの結末の持っていきかたは。
や、やられた、って感じの読後感です。
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